トラックバックありがとうございました。尊敬している方なので大変驚きました。寂しいかぎり。
>日本人からは、極論を吐く異端者と見られていたのでしょうか。
個人的に「彼が述べたことは日本人そのもの。当時の日本社会がただ受け入れられなかっただけ」ではと思っています。時代に早すぎたというか。
これから、遅くなりましたが、冥福を祈ります。
(なんどか、送信したようになったかもしれません。その際にはご容赦の程)
| 二畳庵庵主 | 2008/08/21 4:35 AM |
これは庵主さん、ありがとうございます。
貴ブログの、淡々とした文や余韻のある写真が印象的で、楽しませて頂いております。
私など福岡氏の思想とは対極の俗物ですが、少しづつ勉強していきたいと思っております。
| 八重葎 | 2008/08/22 10:41 AM |
TBどうもでした。「わら一本の…』実際に読んだら、前書きと、本文の内容が矛盾してましたね。
前書きを読み直すと、「何も出来なかった男の残懐録・・」云々とありましたが、読んでみてどうでした?
| U-3 | 2008/09/04 1:47 PM |
コメントありがとうございます。
「わら一本の革命」は、残念ながら持っていないんですよ。手元にあるのは「自然農法 緑の哲学の理論と実践」というやつで、昭和51年の版です。ろくに読まぬまま段ボールの中に埋もれていて、恥ずかしながら今なお読了には至っていません。
「何も出来なかった男の残懐録」という表現は、この本の序文には無いようです。しかし、書の後半の果樹剪定の項に、「私はミカンの自然形を探している間に約半数四〇〇本の樹を犠牲にして枯らしてしまった」と述懐しています。また、果樹の種子を直播する実生栽培にも挑戦したのですが、「結果的には失敗」と白状しています。高い理念を掲げたものの、そこに至ろうとする道は死屍累々。「何も出来なかった男の残懐録」というのは、そんな人生を振り返っての言葉なのかなあ、と思います。
(ちなみに、手元にあるブドウの園芸書によると、果樹はすべて、実生では親の形質を受け継がないため、接ぎ木や挿し枝で増やすのが常識だそうです。福岡氏も、「果実は不揃いで一般の市場に出せるものにはならない…」と、身をもって学んだようです)
そうそう、鶏糞の件ですが、こちらの本でもいきなり序文の30行目あたりに「稲藁全部を、長いまま田圃一面にふりさらしておいて、鶏糞でもあれば三〜四〇〇キロふりまいておく」と出てきます。序文の末尾が「不耕起、無肥料、無農薬、無除草が四大原則である」と結んであるにもかかわらず…。しかし、鶏糞はワラと一緒にやがて肥やしになるための素材であり、肥料ではないんだと、ユルく解釈してあげれば、さほど矛盾でもないと思いますよ。
そうはいっても、米麦作の項に出て来る「私は、標準の五割増程度の多肥栽培を試みている…」(これも鶏糞ですが)という表現には、思わず「あれ、無肥料じゃなかったの」と、ツッコミを入れたくなってしまいます(笑)。
ともあれ、「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」というのは、既成の考え方の枠組みをガツンと突き崩すための、いわばスローガンのようなものではないでしょうか。本当に何もしないわけではない。本の中にも「放任ではない」と書いてあります。
平塚らいてうの「元始 女性は太陽であつた」という有名な言葉があります。これに対して、「じゃあ、いつの誰が太陽だったんだ」と詰め寄っても、詮無いことです。福岡氏の「四大原則」も、目標とする理念ということで、あまり追い詰め過ぎない方が、この本を楽しめると思っております。
| 八重葎 | 2008/09/06 2:06 PM |